30代からの知ったか教養ブログ

教養をつけて人生を変えるぞ!

教養といえば芸術

日曜日に

あいちトリエンナーレ2016

に行ってきた。

 

トリエンナーレというのは、現代芸術家の作品の展示が行われるイベントだ(多分)。

2010年から、3年に一度開かれているらしい。

 

教養といえば、思いつくのは哲学と芸術。

というわけでトリエンナーレに行ってきたわけである。

 

今回トリエンナーレに行くことを決めたときには、トリエンナーレという名前は聞いたことがあったが詳しく内容までは知らなかった。

芸術に関係のあるイベント、ということくらい。

 

だいたい、自分はこれまで芸術に興味があったことはない。

中学の美術の成績はいつも5段階で1だったし、芸術作品の観賞をしたこともほぼない。

ピカソの絵を見ても「おう、カクカクだな」くらいしか思わない。

芸術のすごさがわからないのだ。

 

トリエンナーレという名前を聞いたときに真っ先に思い浮かんだことは、「魔法使いのイントネーションで『鳥にな~れ』って早口で言ったら多分「トリエンナーレ」って聞こえるだろう」ということである。

教養のある人間とは程遠い。

 

ともかく、トリエンナーレに行ってきた。

 

愛知トリエンナーレは、名古屋市岡崎市豊橋市の3つの市で行われている。

自分が行ったのは、岡崎市

 

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受付の近くの旗

 

 

 

 

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受付を済ませたらサービスでもらえた。

カップの中身は、コーヒーではない。味噌汁。

愛知県岡崎市は、赤だしの八帖味噌が有名。

とてもおいしい。

 

 

 

 

さて、受付を終えて会場に入ると、作品がいくつか並べてある。

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なんか三角形のクッションっぽいものが置いてある作品。

うむ、よくわからん。

わかる人にはわかるのだろう。

意味はわからんが、なんかかわいらしいのである。

 

 

 

 

 

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パーティション一面にはられていた写真。

これは素直にキレイだなと思った。

多分、何時間もレンズを開きっぱなしにして撮ったものだと思われる。

街の動きが一枚(?)の写真で見られる。

意味はわからんが、きれいである。

 

 

 

 

 

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あぁ、うん。絵だ。

芸術といえば、絵だ。

これまで絵のすごさを理解したことはないけど、ザ・芸術といえば絵だ。

絵がないとね、うん。

 

と思って右から二番目の小さな絵をよく見てみた。

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うむ、子供の落書きにしか見えない自分の心は腐っているに違いない。

新進アーティストの作品なのだから。

芸術を解さない人間で悪かったな。けっ。

 

 

 

 

 

 

ひとしきりアートを観賞した気分になったので、別会場に移動。

 

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この建物が、会場らしい。

ちょっとお化け屋敷っぽいともいえるし、廃墟マニアにはたまらなそうな外観ともいえる。

この中にも芸術作品はいっぱい展示されている。

 

 

 

 

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「このカーテンが、作品です」

ってスタッフの人が教えてくれた。

芸術は深い。意味わからん。

 

 

 

 

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「あ、あの壁にくっついてる曲がってる棒も作品です」

と、同じスタッフの人。

うむ、芸術である。よくわからんが。よくわからなすぎるぞ。

 

 

 

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「これも作品です」

どれが?

ただのキッチンにしかみえない・・・。

自分の家のキッチンも芸術、ということか。どういうことだ。

 

 

 

そんな感じでトリエンナーレ巡り終了。

 

帰り道で、今日見たものについて考えた。

自分にとっては「え、意味わからん」と思った作品でも、作者は何かしらの意味を込めているに違いない。

 

三角のクッション。

「クッションは普通丸いけど、お前らもっと尖って生きろよ!」

というメッセージなのだろうか。

 

 

街の長時間の動きを撮った写真。

「こんなに街は動いている。人間ってせわしないね。もっとのんびり生きようよ」

ということかもしれない。

 

 

子どもの落書きっぽい絵。

「子供のころのいたずら心、忘れていませんか」

 

カーテン。

「ふっふっふ、これが作品とは気づくまい。そう、芸術とは気づかないところに存在しているのだ」

 

 

曲がっている棒。

「人生の道は、曲がったりしながらも頑張って生きていくのさ」

 

 

キッチン。

「ふっふっふ、これが作品とは気づくまい。そう、芸術とは気づかないところに存在しているのだ」

 

それぞれの作品に、作者の色々な思いが込められているはずだ。

自分の想像が当たっているとは思えないが。

 

会場から駅への帰り道、そんなことを考えていた。

キッチンとかカーテンなどは特に、「いやいや、これが芸術だったら世の中のモノ全部芸術ですよ」と思わせられた。

そう思って周りを注意深く見ていると、いたって普通の電柱とか、アスファルトのごつごつした表面とか、錆びたポストとか、全部芸術作品に見えてくる。

 

まぁ、キッチンとかカーテンに関しては、「これが作品です」なんて言われなければ絶対にじっくり見ようなんてことは思わなかっただろう。

そこで「この作者は何が言いたいんだろう」なんて考えなかっただろう。

あのカーテンを見て、「この建物の古さと、光の加減が絶妙にセンチメンタルな感情を引き起こす。作者は昭和の良さを訴えたかったんだよ」って考える人もいるだろう。

キッチンを見て、「古いキッチンはおふくろを思い出させる。そうか、このキッチンは親子の愛を思い出させるためにあえて汚く見せているんだな。今日は親孝行しようか」なんて考える人もいるかもしれない。

 

芸術作品を見て、評価したり考えたりするのは自分なのだ。

同じ作品を見ても、見る人によって受け取りかたは違う。

 

芸術作品は、作者が鑑賞者に伝えたいものを表現したもの。

それを観賞者が受け取る。解釈は鑑賞者に任される。

最終的な評価などは、鑑賞者次第だ。

鑑賞者が素晴らしいと思えば、作者の意図はある意味で関係なくなる。

つまり、芸術というのは、作者にあるのではなく、鑑賞者の中にあるのではないか。

 

自分が見た芸術作品には、作者の意図も込められていただろう。

しかし、それを見て自分が感じたことこそが芸術なのではないだろうか。

つまり、芸術とは自分自身の中にあるのではないだろうか。

 

と、哲学っぽいことを書いてみたら、なんか教養がアップした気がする。

 

 

トリエンナーレ、芸術のことは相変わらず分からないけど、結構面白かったからまた名古屋会場か豊橋会場に行こうと思う。